ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2805)

 プロフェッショナル仕事の流儀
 「ホスピス看護主任・山本美恵」覚書


 NHKプロフェッショナル仕事の流儀「ホスピス看護主任・山本美恵」(12月13日放送)を視聴しました。その覚書は以下の通りです。

 東京・山谷地区。病気を抱えたまま孤独死する人が増えている。

 山谷は安い労働力の供給原として、日本の高度経済成長を陰で支えてきた。当時の働き手は、今ではほとんど60代以上。病気を抱え、行き場を失う人が少なくない。

 一泊千円台からの"ドヤ"と呼ばれる簡易宿泊所。ひと部屋2畳ほどのこうした部屋で、誰に看とられることなく、亡くなっていく人が後を絶たない。

 ホスピス看護主任・山本美恵(52歳)。かつては病院勤務の看護師だった。身寄りもなく、お金もなく、厳しい人生の末にここに行きついた人たち。そんな行き場のない人たちの"終の住処"として、山本たちの「きぼうのいえ」がある。

 その最期の日々に寄り添う。これまで100人以上を看取ってきた。

 東京・山谷地区の朝は早い。午前4時、その日の日雇い仕事を求める人々が道に溢れる。不況の風がひときわ厳しく吹く。

 その一角に山本たちのホスピスケア施設「きぼうのいえ」がある。山本の家は、緊急対応ができるよう、施設に併設してある。

 「きぼうのいえ」は夫の山本雅基氏が2002年に立ち上げた。施設の職員はソーシャル・ワーカーなど18人。さらにボランティア15人が支えている。看護師資格を持つ山本は看護主任として現場全体に眼を配る。

 日本初の身寄りのない人のためのホスピス。施設は赤字続きで、一般からの寄付でギリギリの運営を続けている。

 入居者の半数は、路上生活や苦しい日雇い労働で生きてきた。生命にかかわる重い病を患いながら、世話をしてくれる人がいない人たちだ。

 入居者のほとんどは生活保護費を受給し、その中から食費等を支払っている。足りない分は寄付で賄っている。日頃の体調管理や緊急時の対応は、医師や訪問看護師が行っている。

 入居者と接するとき、山本たちが大切にしていることは「隣人として、そばにいる」。家族ではない。だけどただの他人でもない。"隣人という距離感"が頑なだった気持ちをほぐしていく。

 山本曰く「ここでは"ただのおじさん"でいさせてあげたい。だから、まっさらな気持ちでつきあえる隣人が必要。今までいつも重たいレッテルがついてまわったのが、それを外して、その人らしくここで生きられるんじゃないかなと思って。」

 3ヶ月前、路上で倒れている所を発見された高須さん。若い頃は、鉄工の仕事で全国を回った。いつの頃からか山谷で生活するようになり、路上生活も経験するようになったという。

 腎臓のガンが肺に転移し、残された時間は長くなかった(取材終了後の11月6日に死去)。

 山本曰く「おじさんたちの言葉を聞いていると、とても自己卑下の言葉が多くて、社会を恨んで、人を恨んで、そのまま自分も否定しながら最期を迎えるって、とても悲しいことだと思うんです。

 「不満もわがままも、その人らしさ」。厳しい一面も厳しい人生の裏返しかもしれない。あえて事情は問わない。

 山本は昭和33年、長野県生まれ。高校卒業後、看護専門学校に進学。3年後、心臓の専門病院で働き始めた。

 山本曰く「私はダメ看護師でした。目の前で人が死んでいくことよりも、自分が仕事に慣れていくとか、そういうことに喜びを感じてしまうような」

 21歳のとき、妻子ある男性と恋に落ちた。その後、転職し「過労死すればいい」と仕事に逃げ込んだ。そしてある日、相手の男性が事故で亡くなった。

 立ち上がるキッカケは、ある冬の日だった。毎朝、見て見ぬ振りをしていたホームレスの男性。通勤の波から外れて、思い切ってカイロを渡してみた。

 「ありがとう」。相手の嬉しそうな笑顔をみたとき、初めて自分の存在を認められたような気がした。

 その2ヶ月後、山本さんは夫となる雅基さんと出会う。雅基さんは重い鬱病を経て、自宅療法の後、ようやく外に出始めたとところだった。参加したボランティアで山谷の惨状を知り、ホスピスの構想を持っていた。

 雅基さん曰く「単純に考えてみたら、僕も簡単にホームレス状態になりえるなと思ったわけですよね。そう思った時に、かかわり、介入し、手を出し寄り添うことをせざるを得なかったです」

 「行き場のない人のための家を作りたい」。雅基さんの考えに、山本は共感した。2人はその後、結婚。

 貯金1000万円に加え、1億円を超える借金をし、さらに寄付を得て、ホスピスを建てた。「むぼうのいえ」とも言われたが、怖いものはなかった。そこには出会いがあった。

 これまで100人を超える人を看取ってきた。それぞれに過酷な人生を抱えた人たち。簡単に向き合うことができるはずもなかった。

 必要になったときに、そっと手を差し伸べる。それが自分の仕事だと山本は考えている。

 山本曰く「自分の人生も色々あったけど、まんざらでもなかったな、よかったかなって思いながら旅立っていただけたらと思っている。」

 山田宏哉記

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 2010.12.14 記事一覧へ戻る 文筆劇場・ト