ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2824)

 遅効性素養としての美術鑑賞 

 本日(2010年12月25日)、千葉県の青葉台公園の彫刻広場と県立美術館を探訪しました。

 僕はよく、美術作品を見に出かけます。単に「身体が欲しているから」なのですが、今回はその理由を言葉で考えてみます。それがある程度、他の方にも通用するものであれば是幸いです。

 まず、僕は体系的に美術の勉強をしているわけではありません。ですので、鋭い批評や美術に関する薀蓄(うんちく)を披露することはできません。

【写真1】青葉台公園。船越保武(作)「春」。気に入った作品。


 また美術館に行く際の意識としては、何か目当ての企画展があって行く事よりも、下調べをせずに美術館に出かけることの方が多い。ある程度の好みはありますが、「印象派でなければダメだ」とか「芸術は現代美術に限る」みたいなこだわりはありません。

 その場で偶然出会った作品に対峙し、味わう。いい加減と言えば、随分といい加減です。

 「美術鑑賞が役に立っているのか」と問われれば、「間接的に役に立っている」と答えるのが適切でしょう。

【写真2】青葉台公園。小寺真知子(作)「三つの時代」。気に入った作品。


 特に写真を撮り始め、ウェブに掲載しはじめてからは、主題や構図、景観の切り取り方などの部分で、好きな絵画作品等からの影響を受けていると思います。そういう意味では、確かに役に立っている。

 しかし何も、僕は写真撮影に役立てるために美術鑑賞をしているわけではなく、それはあくまで結果論です。

【写真3】千葉県立中央美術館。


 僕にとって美術鑑賞は、"遅効性の素養"であり"自分の可能性を広げるためのもの"だと言うことができます。現時点では、何の役に立つかよくわからない。でも、「何か大切なもの」が得られると確信している。

 それは、何か気付きや閃きが生まれることかもしれないし、感覚が鋭くなることかもしれないし、自分自身あるいは人間への理解が深まることかもしれない。

【写真4】千葉県立中央美術館。千葉ポートタワー展望台より。


 美術鑑賞は非日常的なイベントであり、単に日常生活を送るだけでは得られない質感を得られます。

 だから極端な話、美術館から出てきたときの自分は、美術館に入る前の自分とは「別人」になっている。優れた美術作品にはそういう力があります。

 今すぐ何かの役に立つことはなくとも、地道に積み重ねることで、大きな力になる。美術鑑賞とはそういうものではないでしょうか。

 (以上、1000字)

【関連記事】
2010年の横浜 エドガー・ドガ展観賞記
圧倒的訴求力の「シャガール展」

 山田宏哉記

Tweet

 2010.12.25 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ