ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2976)

 誰も教えてくれない"ボランティアの心得"

 先日(2011年5月4日)、福島県の南相馬市で震災ボランティアに参加した折、色々と「ボランティアの心得」のレクチャーを受けました。

 正式に教わる「ボランティアの心得」は「食事は自分で確保すること」といった当たり前のことばかりだが、「弁当を持って来なかった。現地で買えばいいと思ってた」という人もいた。

 また、オリエンテーションでは「津波が来た時は、携帯に緊急連絡をしてくれるのか」という質問をした人がいた。

 大きな地震が来たら、連絡が来ようが来まいが、海岸から離れ、高台に避難するのが鉄則でしょう。当然、すべて自己責任です。

 そして以下は、公然とは言われない"ボランティアの心得"です。

 震災ボランティアでは、男性にはガレキ撤去が人気です。これは、なぜでしょうか。

 人間誰しも「いい人と思われたい」もので、よほどの人でない限り、堂々と「野次馬根性で津波被害を見てきます!」とは言えないものです。だから適当な大義名分が必要です。

 ガレキ撤去のボランティアが人気の背景には、そういう事情もあります。でも、「それでいいじゃないか」と僕は思います。

 野次馬根性で東北にボランティアや観光に行く若者は、東北観光をキャンセルする"思慮深い人"よりも、復興に貢献しています。

施策は人間の「劣情」に配慮しないとうまく行かないことが、多いものです。「売名や興味本位、自己満足のためのボランティアはけしからん」と言うのは正論ですが、それでは誰も集まりません。

 震災ボランティアに志願する若者に対して「自己満足のためじゃない」「売名行為だ」「興味本位で行くな」等々の言葉を浴びせるのは、正直どうかと思います。これでは連合赤軍の「(人民=被災者のために)自己批判せよ!」という話と大して変わりません。

 "100%の善意"をボランティアに要求すると、過激派政治団体やカルト教団のような人たちがやってくるでしょう。ボランティアは適度な具合に"不純"じゃないと、むしろまずいのです。

 また、自分が大災害の被災者だったとして、「100%の善意」で手厚い支援を受けたら、どういう気持ちになるでしょうかか。「ありがたい」と思う一方、「本当に申し訳ない。大変な"借り"を作ってしまった」と感じないでしょうか。

 個人的には、僕は被災者にそういう精神的なプレッシャーをかけたくありません。

 また、ボランティア活動には"中毒性"があるようです。直接的な手応えがあるからでしょう。

 だから、発展途上国で井戸掘りをやってきたような人が日本に戻ると、平凡な日常に耐えられず、"廃人"のようになることもある、といいます。それはたぶん、善意の純度が高過ぎるのです。

 薄汚れた日常から逃避するために、ボランティア活動に没頭する。オフィスで誰も読まないような書類を作るより、途上国の人たちと一緒に汗を流して井戸や学校を作りたい、と考える。そういう動機でボランティアを始めると、たぶんもう戻れません。

 僕はあくまで「薄汚れた日常を取り戻す」ために、震災復興のためのボランティア活動にコミットしたいと思います。むろん、下心も多分に含まれています。

 但し、被災者の視点から見ると、善意の純度が低い人の支援の方が、精神的な負荷が小さくて済むと僕は考えます。

 あまり言われませんが、これもまたボランティアの心得でしょう。

 (1400字)

 山田宏哉記

【関連記事】
福島県南相馬市での震災ボランティア体験記(2011.5.5)

Tweet

 2011.5.8 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ