ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2978)

 震災ボランティアの戦友たち 
 "災害ゴミ"運搬&ガレキ撤去篇


 昨日(2011年5月14日)、福島県のある市町村で震災ボランティアをした。

 9:00〜11:00 受付、オリエンテーション、作業マッチング
11:00〜14:00 "災害ゴミ"の回収・運搬・廃棄
14:30〜15:45 ガレキ撤去

 この日のメインの任務は「津波被害を受けた個人宅から"災害ゴミ"を回収し、市民運動場の"仮置き場"に運搬し、廃棄する」というものだった。人員は4名。

 僕たちは、ボランティアセンター所有のハイエース(トヨタのワゴン車)と自家用車の2手に分かれて被災者宅に向かった。

 ハイエースの運転手を務めたのが原発事故からの避難民であるMさんだった。Mさんの家は福島第一原発から半径10キロほどの距離。原発事故後、家族を東京に避難させたが、Mさん自身は仕事の都合で福島県内に留まる必要があったそうだ。

 これまでは東京の家族の家財道具一式を揃えるのに忙しく、ボランティアには参加できなかった、という。東京の人たちと被災地の人たちの意識の差に、Mさんは絶望的なギャップを感じていたそうだ。

 "災害ゴミ"の回収は、ハイエースの荷台にブルーシートを敷き、その上に乗せて回収した。中身はガラス類が多かった。量が少なかったので、容易だった。

 "仮置き場"である市民運動場に向かう車中、Mさんと「これだけじゃ、不完全燃焼ですよね」ということで意見が一致した。

 災害ゴミの仮置き場では、重機(建設機械、油圧ショベルなど)がガレキの山を築いていた。

 もっとも、ガラスはガラスで回収するが、瀬戸物は「ガレキ」として処分するなど、分別が結構細かかった。泥まみれになった災害ゴミを分別するのは、かなりの手間がかかった。

 また、どさくさに紛れて、普通の家庭ゴミを出す人までいて、仮置き場の作業員も困っているようだった。

 約3時間で作業を完遂。しかし、これだけでは物足りなかった。「早く次の現場に入りたい。このままでは終われない」というのは、Mさんも僕も同じ気持ちだった。

 一旦、事務所に帰って完了報告をした後、僕たちは泥かき&ガレキ撤去の支援に向かった。

 行った場所は、津波被害が酷かった。軽い立入制限区域。全壊した家が多く、半壊した家にも「解体を承諾します」という貼り紙があった。

 僕たちは、側溝の泥をかき出し、土嚢(土砂を詰める土木資材)に詰めてまとめた。側溝には大量の割れた瓦(かわら)が含まれていた。

 また、溝の中のものを何でもかんでも処分すればいいというわけでもない。"思い出の品"が含まれていることもある。この現場では以前、ボランティアが泥の中から指輪を見つけ出して非常に感謝されたそうだ。

 ガレキまみれの側溝の泥をスコップで掬(すくって)って処分するのは、かなりの重労働だった。力仕事には自信のあったという方も、辛そうだった。

 しかも僕は、溝さらいの作業中、胸ポケットに入れたiPhoneを溝の水の中に落とすという失敗をしてしまった。しかし、津波で全半壊した家々が立ち並ぶ中、この程度のことで騒ぐべきじゃないので、気にしないフリをした。

 (内心は気が気でなかった。完全にアウトと思ったが、瞬間的に引き上げたため、復旧した)

 一方、Mさんは、作業終了時刻を過ぎても、延々と溝の中にスコップを突き立てていた。2、3回、Mさんに「そろそろ時間ですよ」と声を掛けたが、もうそれ以上、言うのはやめた。

 Mさんの胸中には差し迫るものがあるのだ。原発事故で故郷を失いかけているのに、「何もできない自分」が歯がゆくて仕方がないのだ。言わなくてもわかる。わかってしまう。

 帰りの車中、僕が「これ程ひどいとは思ってませんでした」と言うと、Mさんは「悲しくなるよな」と呟いた。

 原発事故で避難された福島県民が休日に震災ボランティアをしている。傍目にみても「ボランティアどころではない」というのに。

 こういう事実を日本人はもっと知るべきだと僕は思う。

 (1600字)

 山田宏哉記

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 2011.5.15 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ