ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2989)

 「誰か」が何とかしてくれるのか

 子供の頃、大変なことになったら、「誰か」が何とかしてくれる、と思っていた。

 先日、東京の電車内で眠りこけている人がいて、彼のものと思われる荷物が通路に転がっていた。それがそのまま放置されていた。

 その場に居合わせた人は、皆気付いている。しかし、何もしない。

 僕は荷物を拾い上げ、彼の座席の隣に置いておいた。

 福島に行く前の僕は、こういうことをしなかった。これは福島で震災の救援活動が日常にフィードバックされた出来事だった。

 「誰かがやればいい」とは思わない。「誰か」なんていないんだよ。

 東京の電車の中では「死んでいるんじゃないか」という人をたまに見かける。乗客は彼の周囲を避けるだけで、何事もないように振舞う。

 そして、痺れを切らした善人が言う。「誰か何とかしろ」と。

 道端で人が倒れていたら、「彼は酔って寝ているだけだ。起こしたら気の毒だ」と自分に言い聞かせる。後で死んでいたことがわかったら、「まさか死んでいるとは思わなかった」と驚いてみせる。

 そうやって良心の呵責に苦しまなくて済むよう、上手に振舞っている。

 「誰かやれ」と議論するばかりで、自分の手は動かさない。自分の手は汚さない。これが日本を覆う病だと、最近よく思う。

  首都圏で「被災地でボランティア活動をしたくてもできない」という人は、普段、生存が疑われる人を見かけたら、「生存確認」をするか、「しかるべきところに連絡」するか、くらいのことをすればいいと思う。それだけで、防げる不幸があるはずだ。

 自分以外の「誰か」が何とかしてくれるのか。そうじゃないだろう。

 大人になった今、自分がその「誰か」にならないといけない、と強く思う。

 (800字)

 山田宏哉記

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 2011.5.31 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ