ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2994)

 福島県いわき市の会社経営者に訊く

 福島県いわき市で会社経営をされている方にお話を伺うことができた。

 民間企業の社長でありながら、ボランティア色の強い活動もされている。非常に多忙なスケジュールの中、お時間を割いて頂き、心より御礼を申し上げたい。

 尚、立場上、原発事故の話題に関しては、センシティブにならざるを得ないため、本業と原発事故に関して伺った話は基本的に割愛させて頂く。

――震災当日の様子などは?

 地震当日は、会社の事務所にいた。小さな揺れのうちは「PCが落ちないように押さえろ」と言っていたが、揺れが大きくなって女性社員には机の下に避難してもらった。私の自宅も地震で被害を受けた。

 いわき市で津波で亡くなった人の多くは、津波到来後、一旦波が引いて、自宅等に戻った人たちだった。

 3月12日、客先で打ち合わせをしていたら、原発が水蒸気爆発した情報が入ってきた。『これはヤバい』と思い、従業員を一週間、自宅退避にした。

 2週間くらい、銀行などが使えず、街が機能しなかった。停電は2週間、断水は1ヶ月続いた。

――震災後、大変だったことは?

 水の確保は本当に大変だった。古い井戸の周りには長い行列ができた。みな、譲り合いの精神でキチンと並んでいた一方、ほんのちょっとしたキッカケで奪い合いにもなりそうな雰囲気だった。

 断水中でも岬の公園で水が出る場所があった。その場所が知れ渡ると、半日で水が枯れた。タンクに貯めてあった水と考えられる。そういう場所には、トラックで水を汲みにくる人もいたが、譲りあっていた。

 4月9日に水道が復旧した。しかし、4月11日の余震でまた断水になった。この時は、心が折れそうだった。

 水と食料が不足すると、人間関係もギクシャクしてくる。4月に入ってからは給水車が1日2回、来るようになった。スーパーは入場制限を行っていた。

 震災後、行政は住民の避難先を把握していなかった。そのため、津波で家屋が損壊した場合、壊していいのかがわからなかった。まず、"人探し"から始める必要があった。

――現在、避難所からは人が減っているようだが、仮設住宅や借上げ住宅への移住が進んでいると考えてよいか?

 避難所の人が減っているのは、仮設住宅や借上げ住宅に移っていることもあるが、県外に避難しているケースもある。

 福島県から人が流出している。全国どこでも福島からの避難者がいる。一番多いのは新潟に避難している人で5,000人くらい。

 避難所のような空間で生活していると、その中から"リーダー"のような人が出てくる。避難者も市の職員の言うことを聞かず、"リーダー"の言うことを聞くようになる。こうなると避難所は"独立国家"のようになり、行政も積極的に関わらなくなる。

 西日本からは、「避難してこい」と勧誘を受けている。教員の宿舎などを家賃や水道を無料で使わせて貰えるところもある。中には仕事まで用意して貰える都道府県もある。それでも、"地元が好き"という人たちは福島に留まるだろう。

 津波で家が流された場所に、また家を建てようとしている人たちもいる。こういう人たちは他に行く場所がない。国がこういう地域の土地を買い取って特区にするなどしないと、同じ悲劇を繰り返すことになる。

――放射能への対応は?

 放射能に対する対策は自己判断でやるしかなく、教育現場では混乱が起きている。いわき市では『プールはダメ』というお達しが出たが、校庭の土を入れ替えるかなどは各校の判断。放射線量によって、窓を開閉したりするのは、子どもたちの精神衛生に悪い。

 そのため、学校にカウンセラーなどを呼んでいる。

――今の福島に必要なものは?

 福島は雇用を必要としている。漁業や農業といった一次産業の将来性は厳しい。一番いいのは、福島に企業誘致して、工場を作ってもらうこと。福島県民を雇ってもらえれば、場所は必ずしも福島ではなくてもいい。

 工場を失ったが仕事はある企業と、仕事を失ったが工場はある企業をマッチングする。そういう試みは福島でも始まっている。

――首都圏の人に望むことは?

 いわき市は関東地方と直結し、物流などの面で比較的恵まれていた。関東地方が正常に機能している限り、大丈夫という安心感はあった。

 東京の方々に、わざわざ福島の被害の実態を知ってもらいたいとは思わない。ただ、福島が経験したことを、"次"に活かして欲しいとは思う。震災以後、何が起き、どう対応してきたのか。そういう話を集めて、危機管理マニュアル等を作れればいい。
 
(2011年6月8日 18:50〜20:30 東京・上野駅の喫茶店にて)

 (1,800字)
 
 山田宏哉記

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 2011.6.9 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ