ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (3023)

 クリティカル・シンキングの実践

 一言で言えば何か。

 物事の最重要点を見抜き、それを言語化する。僕はこれを誰でもできると思っていたけど、案外、そうでもないらしい。どうでもいい論点や情報を捨て、死活的な問題に集中する。それが習慣になっている人は、実は少ない。

 一般にビジネスと相性がいい思考技術として、ロジカル・シンキング(論理的思考)という言葉がある。では、三段論法や「漏れなく、ダブりなく」といった手法を使えば、上記のような習慣が身に付くのか。そうではないだろう。

 僕は、実務で使えるのは、ロジカル・シンキングよりもクリティカル・シンキングだと感じている。

 クリティカル・シンキングは明確に価値判断を行い、物事の成否を分かつ最重要ポイントだけを問題にする。その最重要ポイントを刈り込む思考プロセスがクリティカル・シンキングだと僕は解釈している。

(クリティカル・シンキングを「批判的思考」と訳すのは、あまり良くないと思う。これでは「ああでもない、こうでもない」みたいな考え方が連想されてしまう。僕なら「決定的思考」または「死活的思考」と訳したい。

 「批判」も元来「物事の成否を分かつ最重要点を明らかにすること」なので、批判的思考でも間違いではない。でも、日常の言語感覚では「批判」は「揚げ足をとってケチをつけること」というニュアンスだ。だから避けたい。)

 「最重要点を刈り込む」と言っても、その時に押さえておかなくてはいけないのは「思考回路(マインドセット)」の存在だ。構造的な思考パターンと言い換えてもいい。

 僕たちはよく「あの人ならこう考えるだろう」と推測するが、その時は当人の思考回路を参照している。

 思考回路をさらに分解すると、「思考の筋道」とでも呼べるものになる。筋道が単純な人は、他人から見ると「反応が予想しやすい」。逆に筋道にレパートリーがあると、他人からは「反応が予想しにくい」。

 僕は、思考回路を形成する筋道のうち、より本質に近い方を選択すれば、結果的にクリティカル・シンキングになると考えている。

 抽象的なので具体例を挙げよう。何か不手際があり、責任問題が浮上したとする。この場合の最重要ポイントは「誰がどう責任を取るのか」であり、この結論に至る思考プロセスがクリティカル・シンキングになる。

 この時、「自分が悪い」という考えを採用するか、「他人が悪い」という考えを採用するかで結論は大きく変わる。だが、おそらく本人にはその選択をした自覚がない。

 どちらかを「当然の前提」だとみなす。それを決定するのはこれまでに築かれてきた本人の思考回路だ。
 
 この場合、「誰がどう責任を取るのか」という結論に至る思考プロセスがクリティカル・シンキングになる。そして、「自分が悪い」と考えても、「他人が悪い」と考えても、クリティカル・シンキング(最重要ポイントへの刈り込み)は成り立つ。

 だからこそ、自分の思考回路を厳しく精査することが不可欠になる。クリティカル・シンキングは、普段の思考回路に大きく依存しているので、ここがしっかりしていることが肝になる。

 クリティカル・シンキング(決定的思考)が辿る筋道をあえて言語化にすれば上記のようになるが、これは殆ど一瞬の出来事だ。日常的には、「勘」とか「直観(直感)」と呼ばれている領域の話だ。

 暗黙知であるため、一種の技能であることには気付きにくい。他人に教えるのは尚更難しい。

 だからこそ、実務でも使えるのであり、差が付くポイントでもあるのだ。

 山田宏哉記

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 2011.8.3 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ