ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (3034)

震災ボランティアの戦友たち 避難準備区域/床下泥出し篇

 一昨日(2011年8月17日)、福島県のM市(福島第一原発から20〜30kmの緊急時避難準備区域)で震災ボランティア活動をした。

 朝、M市のボランティアセンターには8:25頃着いた。その時点で既に20名くらいが来ていた。

 M市では初めて来た人と2回目以降の人に分け、1回目の人にはオリエンテーションを施す。3ヶ月前は1回目の方に並んだが、今回は「2回目以降」に並んだ。

 活動希望者への作業の割当は、付箋に自分の名前を書いて、希望する活動のところにペタペタと貼る仕組みになっている。力仕事系は床下泥出しと側溝清掃があり、僕は「急募」だった床下の泥出しを選んだ(前回も急募の救援物資の仕訳をした。本当は瓦礫撤去をしたかったが)。

 ボランティアセンターの方から、2回目以降の参加者に対して「現場で写真撮影をしないこと」という説明がなされた。これ自体は尤もだが、理由として言われた「現場にはまだご遺体がある」という言葉にはちょっとギョッとした。

 泥出し作業に志願したのは僕を含め7人。リーダーを決める必要があったが、皆が周囲の顔色を伺うような感じだったので(日本的光景)、僕がやることにした。M市では2回目だが、震災ボランティアとして、3ヶ月の経験がある。その真価を問うことにした。

 必要な資材は、基本的に自分たちで決めた。一輪車2台、角スコップ5本、剣スコップ2本、バケツ5個、土嚢袋100枚、ホウキ、チリトリ、デッキブラシなどを軽トラに積んでいくことにした。

 現場は海から1km弱の個人宅。小高い場所にあったが、床上1メートルくらいまで、津波が到達していて、それが壁に跡として残っていた。1階のものはほぼ全て流され、車庫のクルマも流されたという。

 依頼者に確認すると、床下の泥を取り除く部屋は3つあり、2手に分かれて作業をすることにした。

 手間取ったのは、畳の下の板に釘が打ち付けられていたことだった。そのためまず、畳を上げ、バールとハンマーで釘を抜くことにした。依頼者に大工道具を貸して頂けて助かった。

 床板を剥がすと、泥は薄く乾いていて、すぐ下はコンクリートだった。僕たちはスコップ、デッキブラシ、ホウキ、チリトリなど持ってきた資材をフルに使って泥を掻き出し、それをバケツに張った土嚢袋(格段に作業効率が上がる)に入れていった。

 動きに無駄がない若者のTさん。愛知で大手自動車メーカーに勤務しており、ちょうど実家のあるM市への帰省中にきていた。奇しくもメンバーのKさんもこの大手自動車メーカーに勤務。このメーカーの強さの一端が見えた気がした。

 一時間ほど作業をして小休止。依頼者の奥さんがスイカをご馳走して下さった。畑でとれたスイカだという。

 福島第一原発から30km以内の区域につき、内心気になったメンバーもいたかもしれない。しかし、全員で有難く頂いた。M市産のスイカは瑞々しく、とても美味しかった。

 依頼者の奥さんは、随分とボランティアに感謝していた。あんまり「炎天下の中、汗を流して…」というような話をしていたせいか、Kさんが「好きでやってる志願兵ですから」と言った。素敵な言葉だった。そう、僕たちは単に好きでやっているだけなのだ。

 台所の下にも泥が溜まっていたが、スペースの都合上、人が床下に入ることが難しく、作業範囲に限界があった。ただ、床下のスライド式の格納容器を外すと人が入れそうだったので、一旦、作業のために取り外すことにした。

 格納容器には茶色い水が入っていた。おそらく、津波の水がそのままになっていた。これを取り外し、屋外でスポンジ等でこすって洗った。

 台所の下に入ったメンバーが「これ以上泥を取るのは厳しい」と引き上げて来たところで、僕が奥の方の泥を掻き出すことにした。コンクリートの地面に土嚢袋を敷き、寝そべった状態で作業をした。これで、かなりの泥を掻き出すことができた。

 昼食時、依頼者の奥さんが「畑で取れたキュウリの塩漬け」をご馳走して下さった。塩分が効いていて、特に汗で水分が抜けた身体には有難かった。

 食べながら、福島県在住のメンバーが「東京の人たちは大したことのない放射線量で騒ぎ過ぎている。わずかでも自分たちに迷惑が降りかからないように必死になっている。やっぱり『ここで生きるしかない』と覚悟を決めた人たちとは違う」と言った。

 また、自動車会社で働くKさんは「今では笑い話になったけど、GWの頃は、周囲にここに来ることを隠していた」と言った。僕もそうだった。

 依頼された泥出し作業は、午後の早い段階でやり遂げることができた。そして、剥がした畳と床板を元に戻し、後片づけと清掃。

 依頼者と奥さんが、またお茶類をご馳走して下さった。依頼者や奥さんの昔の貧しかった頃の苦労話は、身に染みるものがあった。あまり言われないが、依頼者の話を真摯に聴くのも震災ボランティアの重要な仕事だ。

 依頼者の奥さんは、この場所で生まれ、この場所で育った。「原発で何が起きても、避難しない」と決めていた。その姿勢が福島に住むメンバーが言った「ここで生きるしかない」という言葉と重なった。

 僕たちは、頃合を見計らって依頼者宅を後にし、作業に用いた資材を自分たちで洗って返却した。そして、解散。

 去っていくメンバーの後ろ姿を見送りながら、「まだまだ日本も捨てたものじゃないな」と思った。 

 山田宏哉記

【関連記事】
震災ボランティアの戦友たち ブロック塀倒壊篇 (2011.8.12)
震災ボランティアの戦友たち 食品工場対応篇 (2011.8.10)
震災ボランティアの戦友たち 床上浸水総合対応篇 (2011.8.5)
震災ボランティアの戦友たち 街宣車をめぐる騒動篇 (2011.7.27)
震災ボランティアの戦友たち 側溝蓋の開閉篇 (2011.7.20)
震災ボランティアの戦友たち 土嚢袋運搬篇 (2011.7.15)
震災ボランティアの戦友たち 食品工場清掃篇 (2011.7.8)
震災ボランティアの戦友たち 床下泥出し・清掃篇 (2011.6.29)
震災ボランティアの戦友たち 全壊地区の現場リーダー篇 (2011.6.21)
震災ボランティアの戦友たち 原発25km地点の瓦礫撤去篇 (2011.6.20)
震災ボランティアの戦友たち リーダーの責任篇 (2011.6.13)
震災ボランティアの戦友たち 豚小屋解体篇 (2011.6.12)
震災ボランティアの戦友たち 被災家具合法投棄篇(2011.6.6)
震災ボランティアの戦友たち 側溝/ドブ川泥掻き篇(2011.6.5)
震災ボランティアの戦友たち 避難所清掃篇(2011.5.29)
震災ボランティアの戦友たち 合同葬儀準備篇(2011.5.28)
震災ボランティアの戦友たち いわきの夜篇(2011.5.22)
震災ボランティアの戦友たち 被災家具搬出篇(2011.5.21)
震災ボランティアの戦友たち 床下浸水対応篇(2011.5.15)
震災ボランティアの戦友たち "災害ゴミ"運搬&ガレキ撤去篇(2011.5.14)
福島県南相馬市での震災ボランティア体験記(2011.5.5)


 山田宏哉記

Tweet

 2011.8.19 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ