ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (3036)

 「語るに値する経験」を求めて

 今更だが、10代20代の頃にどれだけ「語るに値する経験」を蓄積できるかが勝負だと僕は思う。情報が豊富な時代だからこそ、直接経験の質と量がモノを言う。

 僕はずっと「戦争体験」をした人たちに劣等感を覚えてきた。

 ヘミングウェイやジョージ・オーウェルなどの作家も実際に戦争に参加していて、それが作品にも色濃く反映している。実地で極限状況を踏まない言葉は浅くて軽い。震災ボランティアの経験は、多少なりとも、極限状況に迫るものだった。

 今の時代、「語るに値する経験」を踏むのは、なかなかに難しい。

 平和な国で生まれ、平穏な日々を過ごす。たぶんそれは、普通の人にとってはとても恵まれたことだ。しかし、そういう世の中では、活躍の場がない人たちも存在する。僕は「極限状況」を欲していた。

 極限状況の修羅場を踏めば、それは「語るに値する経験」になる。

 もちろん、いかにありふれた人生経験であれ、自分にとってはとても貴重で、かけがえのないものだ。それを前提にした話だが、世の中には「この人の話を聞きたい」と思う人と、そうではない人がいる。

 その差はやはり「語るに値する経験」の蓄積量の差だと思う。

 就職活動をして苦労する人が多いのも、「語るに値する経験」を持たないからではないかと思う。

 「語るに値する経験」のハードルは意外と高い。当然、自分の直接経験でなければならないし、社会的重要性と稀少性を兼ね備えている必要がある。

 日本の教育システムに乗っていると、10代の頃、「語るに値する経験」を積むのはなかなか難しい。部活動を頑張ったこと、ロックバンドを組んだこと、不良をやっていたこと、受験勉強をしたこと。当時は気付かなかったが、どれもありきたりで、巷に溢れた話なのだ。

 高校時代、僕は一生懸命部活動をしていたし、受験勉強もした。それでも「それは語るに値する経験ではない」と判断する。聞かれたら答えるけど、自分から積極的に語るようなことじゃない。傍からみれば、あまりに「ありきたり」だからだ。

 大学に入学すると、選択の幅は格段に広がるが、少なからぬ学生はステレオタイプのような生活を送る。塾講師のアルバイトをして、テニスサークルに所属し、適度に講義に出席して程々に良い成績を取る。これもまた、実にありふれた話だ。

 僕にとって初めての「語るに値する経験」は、2003年から2006年頃にかけてやっていた「日雇い労働」だったと思う。まだ、日雇い労働が社会的に問題視される以前の話で、僕は日雇い労働で金を稼いでいた。この経験は重要性と稀少性を兼ね備えていたと思う。

 2004年から2008年迄やっていた新宿の有名百貨店での「掃除屋」も、「語るに値する経験」に入ると思う。私の通っていた大学の学生は掃除屋のような「底辺労働」をやりたがらなかった。そしてここは「フリーターの巣窟」だった。これは現在の労働問題にも通じている。

 だからこそ、2011年の震災以後にやった「震災ボランティア」は、僕にとって久々の「語るに値する経験」だった。これは間違いなく、人生最良の日々だった。

 僕は10代の頃、「語るに値する経験」を何も踏めなかった。僕は必死に20代の10年間を生きても、せいぜい3?4つほどしか「語るに値する経験」を積むことができなかった。

 次の「語るに値する経験」が何になるかはわからない。そもそも、語るに値する経験かどうかは、結果(社会への貢献度)から遡及的に決まる。

 いまや「語るに値する経験」がなければ、就職もできないし、高い評判や評価も得られない。僕たちは誰しも「語るに値する経験」の継続的な蓄積を求められているのだ。

 山田宏哉記

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 2011.8.21 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ