ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (3041)

 震災ボランティアの戦友たち 夏の終わり篇

 先日(2011年8月28日)、福島県のI市で震災ボランティア活動をした。

 この日、「震災ボランティアも今日で最後」という気持ちでボランティア・センターに出かけた。最後にする作業は何が相応しいかを考えると、やはり瓦礫撤去か側溝清掃をしたいところだった。

 センターには、懐かしい顔がチラホラといた。その中に、無職で毎日震災ボランティアをしていた地元に住むTさん(20代男性)がいた。Tさんは、めでたく地元の古紙回収業者に就職していた。おそらく、震災ボランティア経験が奏功したのだろう。

 紹介された最初の案件は、依頼者の都合で「午前中限定」の作業だった。「午前中で帰る人」が適当だったが、誰も挙手しなかった。僕自身、最終日にこれではもの足りなかったが「皆が嫌がることをやる」という行動原則に基づき、僕がやることにした。

 センターの方は「午後にできる案件も用意する」とか言っていたが、期待はしていなかった。「ハズレくじ」に挙手したメンバーは4名。全員、東京から来ていた。僕は東京に住んでいることが、少し誇らしかった。

 リーダーを務めたのは、20代中盤のSさん。会計事務所勤務。気仙沼の方での活動経験もあるという。東京から高速バスで来て、ネットカフェに宿泊。行動パターンが僕と似ていた。Sさんは「誰かがやらなきゃいけない。選んでいたら、ダメなんだよ」と言った。

 ダンプカーのドライバーをするMさんとイベント会社の経営をするHさん。共に30代後半。幼なじみで、一緒に来たという。昨夜24時頃、MさんがHさんに電話して「行こうか」という話になったそうだ。

 資材は特に必要ないようだったが、念のためにスコップと土嚢袋100枚を持っていった。

 現場は、僕が福島県I市で初めて津波被害を見た場所であり、震災ボランティアとしても最も数多く入った現場のひとつだった。今年の5月初旬頃は瓦礫だらけだった場所が片付き、津波で破壊された道の駅は人で賑わっていた。

 依頼者は約1.5mの床上浸水の父親宅で後片付けをしていた。依頼者の父親は現在入院中だった。捨てていいものと悪いものの判断が難しく、作業に手間取っている様子だった。

 僕たちはまず、当初取り壊し予定だった物置を整理した。収納スペースの都合上、やはり残すことにする、という。床が津波で流失していたため、ビール瓶の箱を並べ、その上に板を敷き、物置の「床」とした。そしてそこに各種家財道具を収納した。

 物置内を片付け、一旦休憩。その後、2階にある物を片付けた。捨てたものは、空の段ボールだけで、その他のものは、「一旦、保留」とした。何を大切にするかは人それぞれで、他人にとってはガラクタでも、本人にとっては宝物だったりする。

 依頼者の方が「親父が色々とため込んでいて、片付けが進まない。津波で全部流されてしまった人に比べれば、贅沢な悩みなのですけどね」と言った。「以前入った現場でもそうでした。こういうこと、多いですよ」とMさんがフォローした。

 僕たちは片付けられる範囲を片付け、依頼に応えた。最後に、物置内の床上の泥を掃き出し、仕上げとした。

 そして、依頼者の方と固く握手をし、被災者宅を後にした。

 僕たちは次の案件を紹介してもらうため、ボランティア・センターに1件目の作業完了報告を入れた。すると、次の案件が決まっていないらしく、待機指示が出た。そこで、少し早いが昼食をとることにした。

 近所に予てから行きたい店があった。地元の人が勧めていた「海鮮丼」の店だ。メンバーが全員、東京から来ていたので丁度良かった。

 海鮮丼(\980)はあまりの山盛りで、ビックリした(Hさんは生ものが苦手で「ヒレカツ」\800を注文していた)。みな、記念に写真撮影してから食べた。これが本当に美味しかった。Mさんが「築地は写真だけで偽物だとわかったよ」とつぶやいた。

 食事中、Sさんの携帯にボランティア・センターから電話がかかってきた。通話しているうちに、Sさんの表情が曇り、「はぁ?」という表情になった。

 どうやら次の案件は、近所のイベントを盛り上げること。要するに「仕事がないから、遊んでいろ」ということだった。

 「貧乏くじ」を引いたことが明らかになり、食事の席の空気が重くなった。「こうなることは覚悟していた」「それでも、誰かがやらなきゃいけなかった」。僕たちは、そんな会話を交わした。作業の負荷が少なく不完全燃焼ではあったが、僕はこれで本望だった。

 海鮮丼を食べ終わり、この後どうするかを考えた。「海を見る」ということになった。

 特に当てもなく道の駅を歩いていると、たまたま別のチームのボランティアに出くわした。リーダーのSさんは「海鮮丼をご存知ですか。オススメですよ」と声をかけた。

 相手には「回し者ですか」と言われたが、Mさんも一緒になって「純粋に美味しくて安かった」旨を説明した。

 話が弾んだついでに、リーダーが「私たちのチームの4人は午後作業がないのですが、そちらでお手伝いできませんか?」と交渉した。すると「むしろ人が足りないから手伝って欲しい」ということだった。

 午後、僕たちは次の現場の支援に入った。自分たちの力で案件を獲得できたのが、何より嬉しかった。道の駅のすぐ近くで、目の前は海だった。依頼者宅は倒壊を免れていたが、床上浸水。ブロック塀が倒壊し、庭が土砂で埋まっていた。

 僕たちは4人は、まだまだ作業が残っている庭での作業に専念することにした。予めスコップと土嚢袋を持ってきていたことが奏功した。どこまで掘れば「本来の土」になるのか判然としなかったが、明らかに津波の土砂と思われる部分を、スコップで掬って、土嚢袋に詰めていった。

 現場には原発事故による避難者の男性もボランティアとして来ていた。現在、原発作業員が宿泊していることで有名な温泉街で避難生活を送っているという。

 側溝も土砂で埋まっていて、全くの手付かずだった。側溝の幅がスコップの横幅よりも細く、土砂を掻き出すのが面倒だった(M市で除染作業をした時の側溝も、幅が細くて難しかった)。そしたら、小さいシャベルを持った女性が来て、作業がはかどった。

 僕たち4人は、ひたすら津波による土砂を土嚢袋に詰め続けた。作業しながら、汗が噴出した。いい汗だった。そして、現場は劇的に綺麗になった。

 依頼者にも感謝され、こちらでも固く握手をして、現場を後にした。もはや悔いはない。
ボランティア・センターに戻り、僕たちは記念写真を撮った。そして、男同士だったけど、別れ際、ついつい抱き合った。

 僕は素直に感動した。「人生はここまで熱くなれる」ことに。

 震災ボランティアをするうち、「一期一会」という言葉を何度も聞いた。確かにもう、二度と会うことはないかもしれない。

 それでも構わない。僕たちは、福島で共に戦った記憶を胸に、同じ時代を生きている。それだけで充分だ。

 山田宏哉記

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 2011.8.26 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ