ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (3049)

 "福島県民"は実在するか

 "福島県民"は存在しない。毎週、福島に足を運んでいるうちに、僕はそう考えるようになった。

 原発事故以降、福島県民の存在がクローズアップされている。当事者である以上、それは当然だが、どこかで違和感を感じてきた。

 僕は東京に住んでいるが、自分を"東京都民"だとは思っていない。それどころか、"東京都民"を見たことがない。"福島県民"だって、それと同じことだ。

 首都圏に住んでいると、つい"福島県民"は「原発事故に翻弄され、福島県民として、東京電力に対して激しい怒りを持っている」と単純化して考えてしまう。間違いとは言えないが、それほど単純でもない。

 福島も地域によって住民感情が随分違う。

 例えば、南相馬市では東京電力の悪口を割とストレートに言えるが、いわき市では東京電力の悪口は言いづらい雰囲気がある。この辺りは本当に微妙で、地元の人と話して初めて気付く部分だ。

 僕の印象では、福島に住んでいても、"地元意識"は、得てして部落・集落単位であって、これは高齢者ほど顕著になる。同じ市町村でも、集落が違うと「よそ者とは分かり合えない」みたいな姿勢になったりする。

 だから、「福島県民としての団結」みたいなことを言うと、むしろ浮いてしまう。

 あまり知られていないが、事故前までは、福島第一原発の周辺に住むメリットはかなりあった。電気代は住民にキックバックされ、税金も安かった。そのため、わざわざ原発周辺に引っ越す福島県民も少なからずいたそうだ。そういう人たちは今、黙っている。

 原発事故での避難することになった人も様々で、マスコミで報道されるように悲嘆する避難者がいる一方、パチンコや競輪場に繰り出す避難者だっている。

 世界の豊かさは、ストーリー仕立てにするには邪魔な"雑音"の部分にこそ含まれている。

 僕は直感的に「福島県民としての団結」みたいなことは、あまりしない方がいいと思っている。それより、県外に「信用できる人」を持つことの方が大切だろう。

 それでも唯一気になるのが、福島に住む人の間で「差別された」みたいな被害者意識が結構広がっていることだ。

 「放射能汚染と生きる」という点では、福島に住んでいようが、東京に住んでいようが、どこまでも「地続き」だ。あくまで程度の差の問題でしかない。

 それを差別するのは愚かだが、「差別された者同士で団結する」のも愚かだ。

 「差別された」云々の話が気になる福島県民には、「雑魚に構うな」と強く言いたい。福島関連のイベントにクレームを入れる輩が雑魚なら、そんなクレームでイベントを中止するNPOの連中も雑魚だ。見下せばいいだけの話で、まともに相手をする価値もない。

 平時に考えれば当たり前のことだが、今はそれが見えにくくなっている。

 繰り返すが、"福島県民"など存在しない。それは僕たちの頭の中だけに存在する"架空の人物"に過ぎない。

 僕たちが対峙すべきは、あくまで目の前の具体的なひとりひとりの人間なのだ。

 山田宏哉記

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 2011.9.23 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ