ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (3062)

 人はなぜ、カリスマを求めるのか

 「なぜ、カリスマの下に集う人々は、似たり寄ったりなのか」という話をする機会があった。

 村上春樹も地下鉄サリン事件の被害者とオウムの信者に取材したとき、被害者の側には人生の重みがあったのに、オウム信者にはそういう重みを感じなかったという趣旨のことを書いていた。

 経験的に言うと、カリスマ的な人物の下に集う人々は、社会不適応の傾向が強く、不遇のことが多い。誰かに依存し、責任感が薄い。

 特にカリスマ的人物の下に集う人々に欠けているのは、たぶん「責任を引き受ける」という覚悟なのだと思う。「どう生きるか」という重要な決断をもカリスマに丸投げし、失敗したら「カリスマに騙された」と言って、また別のカリスマを探す。それを繰り返す。

 それは、現実世界での不甲斐ない自分を慰める「代償行為」に他ならない。更に致命的なのは、その生き方自体に反省がないことだ。

「責任を引き受ける」というのは、能力のひとつで、できる人とできない人に明確に分かれる。

客観的事実とは関係なく、自分の境遇を世の中のせいにする人は、どこまで行っても半人前だと僕は思う。自分の責任を全て引き受けて初めて、一人前の大人と言える。更に言うと、他人の責任まで引き受けて初めて、人の上に立つ資格を得ることができる。

「誰に仕事を任せるか」という選択に迫られた時でも、最も重視すべき点は「彼(彼女)はこの仕事の責任を引き受け、果たすだけの器かどうか」という点に尽きる。だから、自分の不遇を他人や社会のせいにする人には、重要な仕事は回ってこない。

人はなぜ、カリスマを求めるのか。一言で言えば、それは「弱さ」ゆえだろう。

多くの人にはたぶん、「自分の人生をあきらめるタイミング」があるのだと思う。仕事ができなかったり、異性に相手にされなかったりした時点で、自尊心が傷ついて、自分の人生を歩むのをやめてしまう。

気持ちはわかる。気持ちはわかるが、それでもやはり、その責任は本人が負うしかない。この社会で自立的に生きるということだ。

いつも誰かのせいにして、自分の果たすべき責任から逃れ、自分の言葉と考えを持たず、重要な決断をも他人任せにする。そんな人たちがカリスマの下に集まってくる。

いや、正確に言うと、そういう人々がカリスマを欲し、誰かをカリスマに祭り上げる。そしてどこかで、カリスマに騙されることを望むのだ。

 山田宏哉記

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 2011.10.23 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ