ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (3065)

 "認められる努力"は無駄である

 他人を評価する基準は、「好き嫌い」に尽きる。たぶん、殆どの人がそうだと思うし、僕自身もそうだ。

 そして、ここから導き出される結論は、「"認められる努力"は無駄」ということだ。

 20代を通じて、僕はこのことがよくわかっていなかった。

 例えば、組織で働くマネジャーは、もっと公平に評価していると思っていた。だから僕は、指摘された欠点はありがたく受け止め、改善に努めてきた。しかし、結果的にそれらの努力は無駄だった。

 20歳の頃には、僕の基本的な人格は完成していて、それを認めてくれる人もいれば、そうではない人もいた。そして、僕がどのような努力をしようと、その評価は殆ど変わらなかった。

 例えば、僕を評価する人が「積極性・行動力がある」「思考力・言語表現能力が高い」と言う部分を、他の人は「謙虚さが足りず、軽はずみに行動する」とか「観念的で余計なこと言う」などと言う。

 好きな人は好きだし、嫌いな人は嫌い。要するにそれだけの話なのだ。

 「上司が自分の仕事を認めてくれない」という悩みを持つビジネスパーソンに助言するとしたら、「自分の力に自信があるなら、自分の仕事を評価してくれる人を探せ」という点を強調したい。

 自分の仕事ぶりは何も変わっていなくても、評価者が変わるだけで、人事査定が劇的に変わる。そういうことはよくある。

 認められる努力をするより、今の自分を認めてくれる人を探した方が良いのだ。同様に「モテる努力」をするのは大抵無駄で、今の自分を必要としてくれる人を探した方が良い(たぶん)。僕自身は、このことに気付くのに、10年もの歳月がかかった。

 少なくともビジネスの世界では、「認められたい」という気持ちで努力してはいけないのだ。

 向上心はあくまで自分のために使うべきで、他人の視線を気にして使うものではない。
 もちろん例外はあって、誰かの評価を見直すということはある。しかし、それはあくまで例外で、人物に対する基本的な好き嫌いは、よほどのことがないと変わらない。そこに期待するべきではない。

 たぶん、人間一般に認められようとしたり、女性一般にモテようとすること自体が、そもそも間違っているのだと思う。焦点を合わせるべきはあくまで特定の個人で、「その人に認められたら、他にことはどうでもいい」と思えるかが重要だと思う。

 20代を通じて打ち込んできた"認められる努力"は、その殆どが無駄だった。

 それでも救いがあるとすれば、その"認められる努力"は思わぬ副産物を生んだことだ。目的に照らせば無駄ばかりだったが、その砂を噛むようなプロセスがなければ今の僕はない。

 そしてたぶん、人生の一時期、そういう無駄なことに時間を使った経験もまた、記憶を彩る重要な断片なのだと思う。

 山田宏哉記

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 2011.11.3 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ