ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (3105)

なぜ若者は美大に進学するのか-決定的敗北を求めて-

 昨日、武蔵野美術大学の卒業制作展に行ってきた。印象的だったのは、民間企業のアートディレクション職等への就職を強く意識した層と"世捨て人"の層がいることが、作品を通しても強く感じられたことだった。

【写真】武蔵野美術大学

【写真】就職を意識した作品例

 広告代理店等のアートディレクション職への就職を意識した層は、IT機器を最大限に活用して、空間へのキャラクター映像の投影や拡張現実系等、企業好みのテーマを作品を作っていた。

 アートディレクション職に内定したある女子学生の随想を読んだ。これから携わる仕事への覚悟が記されていた。そして、そこからは望む仕事を手にしたプライドと優越感が滲み出ていた。彼女は自分が「勝者」であることを、明確に認識していたことだろう。

 一方、"世捨て人"の学生たちは、「ほとばしる狂気」を作品に打ち付けているようだった。そこには、若さ特有の痛々しさがあったが、それもまた人生だろう。

 学生の進路先をマッピングした表があったが、ここ3年で画家になった学生はゼロ。独立やフリーランスでやる人も殆どいない。運と実力があれば、民間企業でアート/デザイン関連の職を得られるが、やはり「職業としてのアート」を諦める人の方が多数派のようだった。

 そもそも、なぜ、若者は美大に進学するのか。アートをやるなら普通の大学に進学して、余暇にやることもできる。また、美大に進学してもアート関連の職を得られるとは限らない。しかも「潰し」が効きにくい。単純に損得で言えば、美大進学は損だ。

 勝手に想像すると、おそらく美大進学者は「決着」を付けたいのではないか、と思う。幼い頃から絵が好きだった。デザインが好きだった。なおかつ、自分の才能に自信がある。だからこそ、ハッキリと白黒を付けたいのだろう。

 全力で情熱を捧げた対象から、思わせぶりでどっち付かずの態度を取られるのは、辛い。中途半端に褒められるくらいなら、「お前には才能がない」とハッキリ言われたい。少なくとも、僕ならそう思うだろう。

 しかし、現実は厳しく、殆どの若者は敗れ去る。「俺には才能がある」という思い上がりは打ち砕かれ、等身大の自分はただの社会不適応者であることが明らかになる。

 多くの美大生にとって、卒業制作展は「夢を諦めるための儀式」なのだと思う。「ほとばしる狂気」を打ち付けた作品を発表し、自分の人生にケジメをつける。そして、アート関連の職を得られなかった多数派の学生は、大きなハンデを背負い、社会に巣立っていく。

 アート関連の職を得られなかった学生にとって、美大に進学したことは無駄だったのだろうか。そうではない。きっと彼らは「自分には美術の才能がない」と気付き、「職業としてのアート」への思いを未練なく断ち切ることができる。これこそ、美大に進学する意味だ。

 残酷ながら、社会が芸術系の教育機関に期待する役割は「芸術かぶれの若者に現実を見せ、己の才能のなさを見せつけ、『手遅れ』になる前に夢を諦めさせる」ということだと思う。未練を断ち切るのは、たぶん早い方が、再起も容易になる。

 決着は付いた。この際、ハッキリ認めよう。「自分には美術の才能がなかった」のだと。

 今更嘆いても仕方がない。美大進学を決意した時点で、このような決定的敗北を、薄々予感していたはずだ。

 就職活動を通して、アート職を得られなかった美大生も、まだ手遅れではない。これまでアートしかやってこなかったことはハンデとなるが、自信と誇りを持って、社会の底辺を這いつくばって欲しい。

山田宏哉記

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2012.1.23 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ