ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (3117)

 決着:なぜ、人を殺してはいけないのか  

 2年前、僕は「なぜ、人を殺してはいけないのか」を論じた。

 暫定的な答えとして、僕は「自然発生的な人間の秩序に反するから」と記述した。

 人間は万物の尺度であり、僕たちが人間として生まれてしまった以上、よほどの事情がない限り、人が人を殺すことは、認められるべきではない。

 そして僕は、暗黙知を持ち出し、明瞭に言語化して説明できなくても、「僕たちは、人を殺してはいけないことを知っている」と説明した。

 当時としては、これが僕の見識の限界だった。

 では、戦争で人を殺すのは許されるのか。正当防衛はどうか。仇討ち、死刑、自殺幇助、脳死患者からの臓器摘出、安楽死、人工中絶等、それぞれどうなのか。

 個別具体論で、グレイゾーンの領域のことになると、2年前の僕の認識では、対応できなかった。そのことが、頭のどこかでずっと気になっていた。

 それから約2年が経ち、今朝、僕は唐突に気付いた。「なぜ、人を殺してはいけないのか」に対する本当の答えは、「殺人は国家が独占するべき権力だから」なのだ。

 気付きのキッカケは、市橋達也(著)『逮捕されるまで』(幻冬舎)を読んだことだ。著書によると、殺人犯として逃亡していた市橋さんは、下っ端の肉体労働者として働き、仕事帰りの夕日を好み、部屋で仕事道具の使い方を練習していた。

 市橋さんが極悪非道かと言うと、それは違うと思う。むしろ、誠実な方だろう。彼の内面の感覚もよく理解できる。

 そんな人でも、不幸にも人を殺してしまうことがある。そして人を殺した途端、市橋さんは国家権力から追われる立場になり、世間も彼を極悪非道の人間と見做すようになる。

 率直に言うと、とても奇妙な気がした。僕はそこに、純粋に被害者の感情に配慮したわけではない"何か"を感じた。

 なぜ刑法では殺人を罰しておきながら、戦争や死刑で人を殺すのは良いのか。その理由は、国家権力だけが「人を殺す権利」を持つからだ。

 従って、一般人の分際で「人を殺す権利」を行使するのは、国家の威信にかけて、許さない。こう考えると綺麗に辻褄が合う。

 生活実感とはだいぶずれるが、殺人犯が本当に反省すべきことは「殺人は国家が独占している権力なのに、自分は身分不相応にその権限を行使してしまった」ことなのだ。殺人は国家権力の独占事項であり、越権行為の代償は重い。

 もちろん、こんな本当のことを言ったら裁判官の印象は悪くなるだろうが、被害者の感情と越権行為(殺人)の処罰は、全くの別問題だ。

 だから、被害者の家族が「仇討ち」として加害者を殺すのは決して許されない。その理由もまた「殺人は国家が独占する権力だから」である。

 逆に言えば、国家がオーソライズさえすれば、殺人も許される。戦場での戦闘行為、正当防衛による殺傷、人質を取った犯罪者の射殺、格闘技の試合、安楽死、「脳死」の人からの臓器摘出、人工中絶等、権力が定める基準さえ満たせば、仮に人の命を奪っても許される。

 国家が持っている「人を殺す権利」は、経済政策や言論統制とは、全く次元が違う重みを持っている。国民は「暴力装置としての国家」という面に目を向けた方がいい。

 非常事態になると、国家の「人を殺す権利」が剥き出しになる。例えば、原発事故などが起きた時は、「死んでもいい人間」を掻き集め、作業員として事故現場に投入するものだ。これこそ、国家権力の本質である。

 なぜ、人を殺してはいけないのか。答えは、「人を殺す権利」は国家が独占するものだから。古典的な問に対する回答は、僕の中では「これにて決着」だ。

 山田宏哉記

【関連記事】
なぜ、人を殺してはいけないのか(2010.4.16)



2012.2.25 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ