ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (3218)

 映画『009 RE:CYBORG』覚書 

 神山健治監督が手がけた映画『009 RE:CYBORG』を鑑賞した。

 僕にとっては圧倒的な傑作で、今年観た映画の中でNo.1の作品だった。

 本作品を観て特に考えさせられたのは、「愚かな人類を一掃する」ことを望む、人間の深層心理だ。

 作中でも触れられているが、「神が人間を作ったのではなく、人間が神を作った」。自然の営みの前に無力だった人間は、理不尽な世界で生き、いずれ死んでいくために、神という精神的な支柱を必要とした。

 多少、物事を自分の頭で考える習慣のある人なら、たぶん、このことに気付いているだろう。

 本作品では更に踏み込んで、「神とは人間の脳そのもののことだ」という認識に立っている。

 神(≒人間の脳)は一方的に人間を蹂躙し、人は時に神に抗う。「神の声」は「堕落した人類を一掃し、ゼロからやり直せ」と告げる。一方で、堕落した人類の側に立ち、神に抗う天使(=自己犠牲の精神)もいる。

 もっとも、「堕落した人類を一掃するべき」というのは、どう考えても危険思想だが、集合的な無意識としては色濃く存在しているような気がする。

 旧約聖書の世界では、神は洪水を引き起こし、堕落した人間どもを一掃する。人間が神を作った以上、「堕落した人間どもを皆殺しにする」というのは、実は人間自身の願望でもある。

 あるいは漫画版の『風の谷のナウシカ』でも、人類を救済するために、「愚かな人類の一掃」が行われたことが明らかになる。主人公のナウシカはそれに反発するが、作者の宮崎駿は本音では「人類の一掃」を望んでいるように感じる。

 更に言えば、普段から「愚かな人類の一掃」を望んでいる人は、巨大地震などで大勢の死者が出ると、「天罰だ!」などと口にする。

 仮に世界は腐っていて、欲にまみれた人間ばかりが跋扈していても、「人類の一掃」と「ゼロからのスタート」を願わずにいられるか。

 「神の声」は人間の虚栄と傲慢、奸智と壟断を指弾した。人間がそのような存在であることは事実だし、そのことは人間自身が一番良くわかっている。

 ならば、正義のために人類を一掃するべきではないのか。あるいは、そうではないのか。

 要はこのような葛藤が、本作品の中核のテーマだと感じた。

 言葉にすると非常に抽象的になってしまうが、筋書きと映像が練られているので、作品を通して、自ずとこのようなテーマが立ち現れてくる。しかもそれが、エンターテイメントとしても成立している。

 映画『009 RE:CYBORG』。本作をもって「神山健治は押井守を超えた」と言っても過言ではない。

 山田宏哉記

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2012.11.3 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ