ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (3290)

 "この世にいらない人間"と動物的本能の暴走 

 世の中には、「特に有害な人間」がいる。

 「生命を大切に」とは言うものの、害虫がいたら、殺虫剤をふりかけるのが、人間の業である。「特に有害な人間」には、"殺虫剤"をふりかけることを、僕たちは暗黙のうちに容認している。

 例えば、フセイン元大統領やビン・ラディンは、罪状不明のまま、アメリカに処刑された。

 カダフィ大佐は、裁判抜きでなぶり殺しにされ、その死体はインターネットで世界中にばら撒かれた。

 オウム真理教の教祖・麻原彰晃や和歌山の毒カレー事件の犯人とされる林真須美は、証拠不十分で無実の可能性があるにもかかわらず、死刑判決を受けた。

 明白な人権侵害であるにもかかわらず、僕たちは、抗議の声を挙げなかった。「特に有害な人間」に"殺虫剤"をふりかけることを、事実上、容認している。

 端的に言えば、フセイン元大統領やビン・ラディン、カダフィ大佐や麻原彰晃、林真須美といった人物は、「この世にいらない人間」なのである。

 これは何を意味するか。オウム事件を例に考えてみよう。

 麻原本人は人を殺していないし、殺人を教唆した証拠も弱い。「疑わしきは罰せず」の精神に従えば、実行犯の弟子たちは有罪にすべきだが、教組の麻原彰晃は証拠不十分で無罪にするのが妥当な判決だと思う。

 しかし、それでは世間は納得しないだろう。僕たちは麻原彰晃が「この世にいらない人間」だと評価している。

 ここで、恐るべき動物的本能が登場する。

 「『この世にいらない人間』は、その評価ゆえに、問答無用で処刑しても良い」という思想である。「現在は無罪でも、犯行前に処刑した方が、世の中のためになる」というわけである。

 僕たちは、自分の身に危険を感じると、「殺せ、殺せ」の人民裁判をやりたがる。これは動物的な本能で、理性では抑えきれない。

 オウム事件では、この感情が噴出し「麻原は『この世にいらない人間』だから、証拠不十分でも処刑せよ」という暗黙の世論を生んだ。

 麻原彰晃の信者や子どもたちを巡っては、住民票の受け入れを拒否したり、学校への入学を拒否するような事態も起きた。

 父親が犯罪者であっても、子どもに罪はない。近代人権思想の根幹部分が蹂躙されたにもかかわらず、僕たちはこのような人権侵害を暗黙のうちに容認した。

 麻原彰晃の子どもが、ただ麻原の子どもというだけで、各種制裁を受けても、それは「仕方がない」。

 その理由は、動物的な本能に照らせば、麻原彰晃の子どもは「父親が犯罪者という理由で、処刑すべき」だからである。動物的本能では、僕たちは麻原彰晃に対して「一族皆殺しの刑」を下すべきだと考えている。

 それが、子どもの入学拒否や住民票の受け入れ拒否のレベルで済んでいる。「麻原彰晃の子どもを処刑すべき」という意見は、さすがに賛同を得られないだろう。これは、人間の"良心"の賜物である。

 ところで、秋葉原通り魔事件の加藤智大被告は、麻原彰晃とは異なり、世間は同情的だ。加藤被告は、どちらかと言うと、「この世に必要な人間」だと評価されている。

 加藤被告には、死刑判決は下るだろうが、おそらく死刑は執行されない。加藤被告は、獄中手記などを通して、世の中に償い(あるいは"貢献")を続けることになると思う。

 なぜ、麻原彰晃は「この世にいらない人間」で、加藤智大は「この世に必要な人間」なのか。

 加藤被告は正直に犯行の動機を語っている。一方、麻原は動機について、何も語らなかった。大きいのは、結局、この差である。

 なお、藤原新也が『黄泉の犬』で推察したように、オウム事件の動機は「水俣病で視覚障害者にされた怨念」の可能性が高い。

 麻原も正直に、水銀で障害者にされた恨みを語っていれば、「この世に必要な人間」になれたと思う。

 なお、「この世にいらない人間」とか「この世に必要な人間」という評価は、集合的な無意識(あるいは動物的本能)を観察して、言語化したものだ。

 但し、必ずしも僕自身がそう思っているわけではない。僕自身は、実は「この世にいらない人間」などいないと本気で思っている。

 私見では、フセイン元大統領やビン・ラディンの処刑、カダフィ大佐のなぶり殺し、麻原彰晃や林真須美への死刑判決は、動物的本能の暴走であり、正当性が認められない。

 とはいえ、人権のような感覚は、後天的に身に付けるもので、動物的本能に基づいていない。だからこそ、いざとなると弱い。

 それでも、僕たちはどこかで、動物的本能の暴走に歯止めをかけ、"人間の良心"を守らなければならないと思う。

 なぜなら、暴走する動物的本能を止められないなら、人間として生きる意味そのものが崩れてしまうからだ。

 山田宏哉記

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2013.8.20 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ