ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (3346)

 加藤智大被告の弟は自殺すべきだったか 

 秋葉原事件の加藤智大被告の弟さんが自殺したそうだ。

 J-CASTテレビウォッチ「元木昌彦の深読み週刊誌」で、加藤智大被告の弟さんの自殺が取り上げられていた。

◆『秋葉原事件』加藤智大の弟、自殺1週間前に語っていた「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」
http://www.j-cast.com/tv/2014/04/11201931.html

 当然だが、兄が犯罪を犯したとしても、弟に罪はない。近代の法治国家では、改めて言う必要もないことだ。

 但し、現実には、身内に重大犯罪者がいると、加害者家族は、住民票の受入を拒否されたり、就職や結婚ができなかったりと、差別と嫌がらせで生活がメチャクチャになる可能性が高い。

 僕たちは、それを"社会的制裁"などと呼んで、半ば黙認している。

 日本では、実質的に「加害者家族に人権はない」。

 これを言うのは酷だが、加藤智大被告の弟さんが自殺に追い込まれてしまったので、敢えてこれは言っておきたい。

 「加害者家族は幸せになってはいけない」というのは加藤智大被告の弟さんの言う通りで、加害者家族が幸せそうにしていたら、法的には問題なくても、世間は納得しない。

 部族の論理を言えば、僕たちは、重大事件の加害者家族に対して、「死んで詫びろ」という感情を持っている。

 加害者家族のうち、「誰かが自殺して、世間に誠意を示す」のは、昔から部族共同社会でなされてきた。

 但し、法治国家である現代日本で、これを言うのはまずいので、加害者家族が自主的に自殺して、世間に詫びるのを待っている。そして、加害者家族の誰かが自殺すれば「残りの家族」をある程度、許すわけだ。

 法的責任のないことに対して「死んで詫びる」のは、部族の論理では、非常に重い。

 日本では、今も「部族の論理」が幅を効かせている。というより、むしろ「部族の論理」こそが、動物の本能に根ざした普遍的価値観で、近代の人権思想の方が、フィクションと言ってもいいくらいだ。

 「部族の論理」に盲従する必要はないが、水面下で世間を動かす文法なので、配慮する必要はあると思う。

 だからこそ、重大事件の加害者家族は、日本で暮らすのを諦め、海外移住し、人生をやり直すのが得策だと思う。

 日本国内であっても、東京の山谷や大阪の釜ヶ崎のように、「理由ありの人が集まる被差別スラム街」がある。市橋達也被告も、大阪の釜ヶ崎で逃亡生活をしていた。海外移住が無理なら、こういう被差別スラム街に紛れて暮らすのもありだろう。

 重大事件の加害者家族は、日本で暮らし続ける限り、部族の論理によって、「死んで詫びろ」という世間の圧力に晒されることになる。この点については、シビアに考えた方が良いと思う。

 身内に重大犯罪者を抱える人にとって必要なのは、「家族は関係ない。差別に負けるな。自殺するな」みたいな精神論ではなく、日本を捨てて、海外で人生をやり直すことだと思う。

 加藤智大被告の弟さんは、自殺までする必要はなかったが、日本で暮らすのは諦める必要があったと思う。

 だからこそ、誰かがハッキリと「お前の人生はもう終わっている。日本で暮らすのは諦めて、海外に移住しろ」と助言すべきだったと思う。端から希望を捨てていれば、自殺にまで追い込まれずに済んだかもしれない。

 部族の論理に照らせば、加藤智大被告の弟さんの自殺は、無駄ではなかった。彼が自殺したことにより、マスコミの取材は自粛され、「残りの家族・親族」に対する世間の風当たりは、多少緩まるだろう。

 僕たちは、差別と嫌がらせで、加藤智大被告の弟さんを自殺に追い込んだ。そして彼は結果的に、法的責任のないことに対して、死んで詫びることになった。

 あまりの理不尽に、無念だっただろうな。

 山田宏哉記

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2014.4.12 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ