ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (3517)

 「落伍の痛み」を直視せよ
 - 人生の重大事と後悔のない決断 -

 人生や仕事においては、色々な悩みや葛藤がある。

 特にそれが、結婚や就職あるいは転職など、人生を直接的に左右する重大事であれば、なるべく「後悔のない決断」をしたいと考える人が多いだろう。

 では、僕たちは、このような重大な決断をする背景に、どのような動機があるのだろうか。

 僕は数年前、自分自身の痛みを感じながら、ようやく気付いた。落伍の痛み。人生を左右する決断をする上で、その背景で、僕たちのエゴを動かすのは、「落伍の痛み」なのだ。

 落伍とは何か。
 端的に言えば、「横並びの状態から、自分だけ、脱落すること」である。
 当然ながら、恥を晒すことになり、エゴが痛み、大いに自尊心が傷付く。

 人生の重大事においても、実はこの「『落伍の痛み』を味わいたくない」という感情に、僕たちの判断は左右されるのだ。

 例えば、多くの会社員が、転職を決意する「本当のプロセス」はこうだ。

 一生懸命、仕事に打ち込んでも、せいぜいが標準評価。このことが、余計なプライドが高い彼を、いかに傷つけるか。そうこうするうちに、優秀な後輩が抜擢され、否応無しに、「落伍した自分」を見せつけられる。

 余計なプライドが高い彼は、職場で「落伍した自分」を見せつけられることが、恥ずかしくて、耐えられない。だから、恥ずかしさのあまり、転職を決意する。

 これを「キャリアアップのための転職」と表現する。真の転職理由がこれだから、転職の95%は失敗するのだ。

 自由な雰囲気で有名なあのGoogle社においてさえ、同僚より昇進が遅れた社員は、退職する傾向があるそうだ。多くの人は、余計なプライドが高くて、自分が落伍した現実を、直視できないのだ。

 繰り返すが、人生の岐路に立った時、彼を突き動かす本当の動機は、多くの場合、「落伍の痛み」なのだ。本音の感情を、誤魔化してはいけない。僕たちは、自分が周囲から落伍して、恥ずかしい思いをすることに、身を刺すような痛みを感じるのだ。

 人間は社会的動物なので、本人の意思とは関係なく、周囲と自分を比較してしまう。そして、自分が劣っていれば、否応なしに「落伍の痛み」を味わうことになる。

 「他人に全く興味がない」という世捨て人でない限り、僕たちは「落伍の痛み」と無縁には生きられないのだ。

 同窓会の案内状が届けば、「欠席」に印をつけて、返送する。かつての同級生と比較して、自分が落伍していたら、恥ずかしくて、顔を出せないと感じてしまう。これもまた、「落伍の痛み」。落伍者は、目を閉じ、耳を塞ぎ、落ちぶれた自分を感じないように生きているのだ。

 後輩に追い抜かれて、後輩の部下になって、日々、「落伍の痛み」を感じながら、それでも自分の会社を誇りに思えるか。「無能な自分より、優秀な後輩を抜擢する会社は、フェアで素晴らしい」と思えるか。おそらく、無理だろう。思うに、人間は、そういう生き物だ。

 何だかんだ言っても、年功序列の満足度が高いのは、これが「落伍の痛み」を感じる人を、最小化する仕組みだからだと思う。本当は、成果に見合う報酬を払うことよりも、落伍の痛みを最小化することの方が、ずっと大切なのだ。

 僕自身、出世競争に落伍して、エゴを痛めながら、恥を晒しながら生きている。「落伍の痛み」が人を動かしていることが、否応なしに、見えてしまう。

 かつて、漠然と抱いていた不快感の正体。あれは「落伍の痛み」だったのだ、と今では思う。渦中にいる時は気付きにくく、自分でも、「自分が落伍した」とは、長らく、認められずにいた。

 だからこそ、僕は、敢えて言わねばならない。
 「落伍の痛み」を直視せよ、と。
 人生の重大事は、多くの場合、後悔してからでは遅い。

 そして、「落伍の痛み」から逃げる判断をすると、多くの場合、失敗する。
 某広告代理店で過労自殺してしまった方も、「落伍の痛み」を直視して、受け入れさえすれば、自殺にまで追い込まれずに済んだと思うのだ。

 「落伍の痛み」を直視せよ。
 真摯に自分自身のエゴと向き合うからこそ、人生の重大事において、「後悔のない決断」ができるのだ。

 山田宏哉記



2017.5.1 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ