ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (3520)

 出世できなくても、意欲を失ってはいけない

 楠木新(著)『「こころの定年」を乗り越えろ』(朝日新書)に、出世競争に落伍して、意欲を失う社員の様子が記されている。

 "技術系や理系の社員であれば、専門的な仕事に取り組むのではないかと聞くと、管理職やチームリーダーなどのポストに就けないと意欲を失う社員が多いそうだ。"(P95)

 "同期入社者と比較して昇進が遅れていることで意欲を失っている社員が、昔に比べて間違いなく増えている。"(P97)

 予め断っておくと、僕自身は、出世競争に落伍している。
日々、「落伍の痛み」を感じながら、恥を晒しながら、生きている。『山月記』の悲哀を感じる今日このごろです。

 まず、僕自身が、そういう"負け犬"に過ぎないことは、予め、断っておきたい。

 ただ、それでも、僕は思うのだ。
 出世できないことを理由に、意欲を失う人は、そもそも、人の上に立つ器じゃないと思うのだ。

 ではなぜ、出世あるいは人事評価の高低で、仕事への意欲や成果の質を上下させてはいけないのか。

 端的に言って、それは、お客様には、関係ない話だからだ。
出世できなかったからと言って、不貞腐れて仕事をしたら、お客様に迷惑がかかる。  出世や評価がどうあれ、仕事に関しては、「ベストを尽くす」以外の選択肢はないのだ。

 僕自身、落伍して、日々、エゴの痛みを感じているので、落伍者が意欲を失うプロセスが、実は、手に取るようにわかる。

 典型的なパターンを言おう。
一生懸命、働き、時にはサービス残業もして、勤務時間外にも勉強もして、それでもなお、標準評価。「こんなに頑張ったのに」とプライドが傷付き、エゴが痛み、不貞腐れてしまうのだ。

 でも、これはプロの姿勢ではないのだ。
 率直に言えば、そういう態度だから、標準以下の評価に甘んじているのだ。

 多くの人が「落伍の痛み」を素直に認められず、受け入れられず、仕事への意欲や成果の質に、悪影響を与えていると思う。確かに、職場で落伍したら、エゴが痛むのは、当たり前じゃないか。それでも、その痛みを、仕事とは切り離すのがプロなのだ。

 確かに、モチベーションが下がるであろう出来事っていうのは、色々とある。意に沿わない異動や転勤あるいは、降格したり、職場の同僚との相性が悪かったり。

 でもだからこそ、見る人は見ている部分だと思うのだ。それでもなお、真摯に仕事に打ち込む人材なのかどうかを。

 ここに気付けるかが勝負なのだが、不本意な出来事があった時、不貞腐れたり、投げやりになったり、やさぐれたりするような人に、重要な仕事は任せられないのだ。会社や上司の視点で考えれば、当たり前じゃないか。

 標準レベルの人は、標準レベルの人同士で群れて、愚痴を言い合ったりしているから、肝心なことに気付かないし、気付いても、実践できないのだ。「それはひどい、それじゃ、やる気がなくなっても当然だよね」とか言い合って。実際、それが標準的な反応だから、自分の未熟さに気付かないのだ。

 「お前の言うことは厳しすぎる。普通の会社員は、匿名でSNSをやって、職場の気に食わない奴の悪口を書いているんだよ!」と言われれば、実態は、その通りかもしれない。

 しかし、それがあるべき姿なのか。そんな奴に、重要な仕事を任せられるのか。議論するまでもないだろう。

 もちろん、「山田は出世競争の落伍者のくせに、生意気だ」と言われれば、全くその通りだ。日々、こうしてエゴを痛めながら、恥を晒しながら、生きている。

 今の今だって、内心、忸怩たる思いを抱きながら、この記事を書いている。折角の大型連休だというのに、自分の愚かさと能力の低さを痛感して、大いに気が滅入っている。

 でも、出世競争に落伍しようと、僕は自分の仕事には、常にベストを尽くしている。この一点だけは、自分でも誇りに思っている。

 出世できなくても、仕事への意欲を失ってはいけない。
 実は半分以上、自分に言い聞かせるための言葉なのだけど、これだけは、強調させていただきたい。

 山田宏哉記



2017.5.1 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ