ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (3525)

 落伍した自分を認めよう
  - 見栄とプライドの塊としての人間 -

 かつての学校秀才も、その後の人生で落伍し、落ちぶれることがある。人が集まって競争すれば、勝利する者と敗北する者に分かれる。

 そのこと自体は、人間社会の前提です。

 問題は、自分が競争に破れ、落伍した時、素直にその事実を認められるか、ということだ。これが難しい。

 かつて、学校秀才として称賛された者ほど、落ちぶれた自分を受け入れられないのだ。得てして、余計なプライドを捨てられない。過去の栄光を忘れられないのだ。

 無職同然になったり、出世競争から落伍したのに、なぜか口ぶりが偉そうです。

 落伍した自分を素直に認められず、受け入れられず、「俺様は本当は凄いんだ!俺様の凄さを思い知れ!」と、エゴが悲鳴を上げているのです。

 気持ちはわかる。が、落伍の痛みは、素直に受け入れる必要がある。

 また、就職に失敗したり、退職勧奨で失業者に転落した時は、新興宗教が魅力的に見えるものです。

 「こんな世の中は間違っている。この高邁な思想を信じれば、あなたをバカにした奴らよりも高みに立てる」というメッセージが、実に魅力的に見えてしまうのです。

 菜食主義者やヨガの愛好家、修行僧なども、余計なプライドが高い人が多いと感じます。要は「世俗の価値観を超越して、一般人よりも高みに立つ俺様」が好きなのですが、そのことに無自覚です。本当は、見栄とプライドの塊なのにね!

 仕事で成果を出せない落伍者なのに、学校秀才だった頃の栄光とプライドが忘れられず、「現代文明を鋭く批判する俺様は、思想的に優れている!」などと息巻くのは、寝言、世迷い言でしかありません。

 自分のエゴを直視しましょう。

 何なら「一流大学卒なのに、コミュニケーション能力がないから、薄給激務のブラック企業にしか就職できなかった。悔しい!恥ずかしい!」と喚き散らすべきです。

 あるいは「無職になって、家族からもバカにされている。悔しい!恥ずかしい!」と喚き散らしましょう。

 貴殿は負けたのです。『山月記』を読んで、猛省しましょう!

 落伍した自分を認め、受け入れることは、成長に必要なプロセスなのです。

 山田宏哉記



2018.8.18 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ